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1週間と1日遅れの更新すみません。いろいろと考えがまとまらないまま日々を過ごしていますが、今日は1月23日付の拙ブログの記事「神はどこに…」に関連する記事を書きたいと思います。(相変わらず脱線中ですが…)
まずは、しばらく前のネットサーフィン中に目に留まった記事の紹介から。複数のメディアの記事がありますがこちらから引用することにする。 『未曾有の大惨事となったインドネシア・スマトラ島沖地震による 津波災害を受け、「私は神の存在を疑う。全てのキリスト者は神の 存在を問うべきだ」と英国国教会(聖公会)の霊的最高指導者 ローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教は1月2日付の英日曜 紙『サンデー・テレグラフ』に異例の手記を寄せた。 個人的で率直な内容で、大司教は既に15万人以上の命を奪った 大惨事によって信仰がくつがえらないと言うなら「それは間違って いるだろう」と述べている。祈りが「魔法のような解決」を提供しない と認め、そして、人間の苦悩に対するキリスト者の回答の大部分は 「目前の堪え難い悲しみと荒廃」には役立たない、と言う。 大主教はそのうえで、「信者たちは生き残った人々と情熱を持って かかわらないといけない」と訴えた。』 「私にはわかりません」というドイツ人牧師の言葉を聞いた時にも率直だと思ったものだが、カンタベリー大主教の文章はこの問題にもう一歩深く踏み込んでいるように思えた。 本当は「神の存在を問う」というタイトルで、この文章から考えたことをいろいろ書こうと思ったのだが、英語での原文のニュアンスがこのまとめと少し違っているという指摘があったので、原文を読んでからにしたいと思う。今日は『祈りが「魔法のような解決」を提供しない』という部分について書いてみたい。 「祈りましょう。」という言葉は、教会では無論よく聞かれる言葉だ。教会が正しく歩みを進めることが出来るように祈る。問題の解決のために祈る。問題に直面している人たちや、自分たちのために祈る。これは、教会で普通に行なわれていることで、その祈りが聞かれることも多々あるだろうと思う。 しかし、もしこれを逆方向に考えて、「教会に問題が絶えないのは、祈りが足りないせいだ」とか、「祈っているかどうかが信仰を表す」などと考えるようになったら、それは全く本末転倒になり、律法主義的になってしまうのではないだろうか。そのうち、「一日○回◎時間祈るのが信仰深い信者の条件で、祈ってさえいれば問題のない人生を送れる」などという、どこぞの怪しい宗教にありそうな路線に走りかねない。 もし祈りが足りないせいで問題が起こっているのであれば、私たちが必死で祈ればスマトラ島沖地震による津波災害の被災者もあっという間に救われて普段の生活に戻れるであろうが、カンタベリー大主教の言葉の通り、「魔法のような解決」は祈りによってはもたらされない。被災地で、今こうして記事を書いている間も水・食料・衣類などを提供したり、孤児となった子どもたちのお世話をしたり、その他様々な活動をしている人たちがいる。こういう人たちの地道な働きによって復興作業が行なわれるのであって、神は人の手で出来ることを代わってやってはくれない。だからこそ今、私たちが被災地の人々と「どう関わるか」が問われているのだ。 同じことが、教会や日常生活にも言えるだろうと私は思う。問題が起こったとき、それを解決していくのはあくまでも本人たちであって、神に全面的にやらせるわけにはいかない。だから、祈るとしたら有名な「ニーバーの祈り」が一番よいのではないかと思う。 『主よ、 変えられないものを受け入れる心の静けさと 変えられるものを変える勇気と その両者を見分ける知恵を私に与えてください。』 祈るだけではなく、変えられるものを変えるために行動することは重要だ。「信者たちは生き残った人々と情熱を持ってかかわらないといけない」というカンタベリー大主教の言葉は、そういう意味でも非常に深い言葉である。そして、「情熱」は英語で"passion"というのだということも、忘れてはならないと思う。
by saichan_neko
| 2005-02-10 07:54
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