by saichan_neko
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少し前の話になるが、5月15日は聖霊降臨の日曜日であった。
私は実を言うと、この「聖霊」というものが「悪霊」と同じぐらい苦手である。聖書の中に出てくるもので、聞かれてもちゃんと説明が出来ないものの一つである。大体、洗礼を受けて10年になるが、ぶっちゃけた話、「聖霊」の存在も「悪霊」の存在も感じたことが一度もない。 周りのクリスチャンの話を聞いていても、「聖霊」をはっきり定義して使っている人はほとんどいない。「聖霊の働き」だという言葉は聞くことはあっても、それは本人が直感でそう思ったからそう称した、という場合が多いようだ。例えば、長い間わからなかったことがピンときたときに、それを「聖霊が助けて、わからせてくださった」と言っていたりするのを聞いたことがあるが、私なら同じことを「神様がわからせてくださった」と受け止めるであろう。要するに、この辺の使い分けは非常に主観的で、客観的には根拠のないものとなってしまっている場合が多い。 「異言の祈り」という、本人にも理解できない言葉で祈るのを「聖霊の働き」とか、どんどん回心して受洗する人が出る、いわゆるリバイバルの現象やら、集会にたくさん人が集まることを「聖霊の働き」というのを聞いたことがあるが、これは私ははなから眉唾だと思っている。というのは、こういった現象は別にキリスト教でなくても他の宗教でもよくあることで、心理学的に説明可能な、「人間の集団」であればどこでも起こりうる現象だと理解しているからだ。「聖霊の働き」がキリスト教の特権なら、他の宗教では同じ現象は起こりえないはずである。キリスト教でこの現象が起こった場合は「聖霊の働き」、他の宗教なら「悪霊の働き」などと称するのも聞いたことがあるが、これはもってのほかであろう。当事者以外には全く同じに見える現象を、別の霊の働きだと称するのはあまりにも客観性を欠いており、説得力がない。 そもそも、「霊」という言葉自体が、「実体のないもの」=気のせい、といったイメージで、幽霊を思わせたりして一般にはとにかく印象が悪いのに、こんな客観性を欠いた使い方をして「霊の働き」を強調するようでは、「これだから宗教は…!」と胡散臭いもののように見られてしまっても仕方がない。 そんなわけで「聖霊」という言葉も「悪霊」という言葉も、極力使わないようにしている私なのであるが、何と今年の聖霊降臨祭の日、生まれて初めて「聖霊よ、来たれ」と心から祈らざるを得ないような事態に遭遇してしまった。 いつものように教会への出勤バスに乗っていたら、知り合いのご夫婦にばったり会った。このご夫婦は隣の地区に住んでいるのだが、うちの教会のD牧師の説教がとても気に入っていて、ときどきバスに乗って聞きに来る。この日もそれで同じバスになったわけなのだが、何となくこのご夫婦の様子がいつもと違うような気がした。 「実はね、私達、混乱してるんです」とご主人の方が話し出した。「え?」と目を丸くして聞き返した私に、「娘が昨日結婚したんです。」とご主人。 なんだ、それなら嬉しい話なんじゃないですか、と思って、「それはおめでとうございます」という言葉が私の喉まで出かかったのを、奥さんの言葉が遮った。 「そして、同じ日に私の母が亡くなったんです。」 私はあまりのことに呆然としてしまった。「どうして、同じ1日のうちにこんなことが起こりうるんでしょう?」と言葉を続ける奥さんの目が、みるみるうちに涙でいっぱいになった。 「娘が結婚して、ちょうど12時間後に義母が亡くなりました。そんなこんなですっかり混乱してしまったんですよ…」と、ご主人が元気のない口調で付け加えた。 こんな時に、気の利いた一言の言える人がうらやましい。私は完全に言葉を失ってしまって、話を聞きながら相槌を打つのが精一杯だった。何か言って力づけてあげたいとは思うものの、まさしく1日のうちに天国と地獄を味わったばかりのこのご夫婦に、一体何を言ってあげたらいいのであろう。 「それで、今朝起きて主人に『今日は一緒に教会に行こう、D牧師の説教を聞きに。気持ちが落ち着くかもしれないから。』って言って、来ることにしたんですよ。」と奥さん。バスを降りて、礼拝が始まるまで時間があるから、と散歩に出かけた二人の後ろ姿を見送り、教会に入って仕事の準備をしながら、私自身も心が落ち着かなかった。 「聖霊」は聖書の中で、「慰めるもの」という言葉で表現されている。(日本語聖書では「慰め主」となっているが、「主」という言葉のニュアンスがドイツ語にはないので、ここでは「慰めるもの」とさせていただく。)礼拝が始まり、聖霊降臨の話を聞きながら、私は「聖霊よ、慰めるものよ、来てください。何も言葉を見つけることの出来ない私に代わって、このご夫婦を慰め、励ましてください」と心から祈ったのであった。 「私達の教会が、喜んでいる人たちのためだけではなく、たった今悩み苦しむ人たちのためにも扉を大きく開いた教会であることが出来ますように。」という牧師の祈りにも、心から「その通りです(アーメン)」ということが出来た。 「教会離れ」ということが取り沙汰されて久しいドイツの教会であるが、例の9・11テロが人々を不安に陥れたとき、平和を求める礼拝が行われ、大きな教会の会堂がいっぱいになった様子がテレビで大々的に報道されていた。いざというときの人々の心の拠り所がどこにあるのかを象徴するような光景であった。 私の勤務先の教会は、500年の歴史のある教会である。500年間、日曜ごとに人々に扉を開き、礼拝を行ってきているわけだが、人々は必ず毎回教会に来るわけではない。でも私は今回、もしもこのご夫婦の直面したような「心の危機」の時に、「聖霊=慰めるもの」が存在する場所として教会を思い出して足を運んでもらえるのであれば、それだけで500年間礼拝を行ってきた甲斐があったといえるのではないかと思ったのである。教会がいつも変わらず「そこに存在すること」、ヨーロッパ言語でいうpresentであることの重要性を、ずっしりと重く感じさせられた今年の聖霊降臨祭であった。
by saichan_neko
| 2005-06-11 23:26
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