by saichan_neko
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今回は教会用語は教会用語でも、神学的なこととは直接関係ない話題でいってみたいと思う。
日本の教会(といっても全ての教会ではないのかもしれないが)では、毎日曜ごとに発行されて礼拝出席者に配られ、また礼拝に来られなかった人にも配布する印刷物を「週報」と呼んでいるようである。内容は、その日の礼拝順序、その週の行事予定、連絡事項等である。 週報の他に、1ヶ月に一度配布される印刷物もあって、これは「月報」と呼んでいるようである。牧師からメッセージや会員からの投稿などが掲載され、週報より本格的な読み物となっている。もちろん個人消息や行事予定、連絡事項も載っている。 さて、この「印刷物の名称」をめぐって、かなり前こちらの日本語教会で議論になった。日本語教会では月に一度日本語礼拝をしていて、それにともなって礼拝順序・行事予定・連絡事項を掲載した印刷物を発行している。この印刷物は当然月に一度しか発行されないので「月報」という名称にしているのだが、それがおかしいと強く主張する人が出てきたのだ。 「月報というからには、牧師からのメッセージ等の掲載された、もっと内容の多いものでなくてはいけない。この印刷物は内容的に週報以外の何物でもないから、月に一度しか発行しなくても週報という名称にすべきだ」というのがその主張なのであるが、当時洗礼を受けていなかった私は、これを聞いて唖然とした覚えがある。もちろん どこの世に月に一度しか発行されない週報があるんじゃい!! と思ったのだ。日本の教会で育っていない私には、週報はこういうもので月報はこういうもの、という固定観念はもちろんない。「週」と「月」のみにしか意味が感じられないから、この主張がものすごく奇妙に思えたわけである。 幸い、そこまでこの言葉に固執する人はさすがに1人しかいなかったので、月に一度しか発行されない週報、という外部から見て不可解な印刷物は誕生せずにすみ、日本語教会は今でも日本の週報もどきのものを「月報」として毎月配布している。 笑い話のようであるが、しかしここには問題がくっきりと浮き彫りになっている。「これはこういうものである」という固定観念を持ちすぎていると、周りの状況が変わったときに柔軟に物事に対応することができず、自分の固定観念を振りかざしてしまうということである。もうお気付きのように、この問題に起因する不和や諍いは絶えず私たちの身の回りにある。 周りの状況が変わったときに、自分の固定観念をも変えていくというのは、実は容易なことではない。自分が今まで生きてきた世界観が崩れるような気がして、怖さのあまり自分の固定観念にしがみ付き、振りかざして相手を説得しようとしてしまうからだ。教会とは全く関係なく、日本の固定観念が全然通用しない外国では、みんな多かれ少なかれこの問題と戦っている。しかし、自分の固定観念が「あ、ここでは通用しないのね、今までの私が思ってたことはなんだったんだろう」と素直に受け入れ、考えることの出来る人はこの問題を乗り越えていける。 同じことが、教会にもいえるのではないだろうか。同じような信仰を持つ人たちと関わり、教会用語を使っているうちに、それが自分たちの間だけで通用する「固定観念」になってしまい、外部の人たちには通用しないということを忘れてしまう。そして外部の人たちと接した時に、自分の固定観念を振りかざして「宣教」という名の押し付けをしてしまうのである。 だが、私たちの信仰の基本とは「私たちの固定観念や価値観ではなく、神が全てである。そして神の考えは人間には把握できない」ではなかったのだろうか?自分には究められない神の価値観に深く信頼することで、私たちは自分の頑なな固定観念から自由になれるはずなのだ。自分の固定観念にしがみついてしまいそうになる時、もう一度自分の信仰=神への信頼のあり方を省みてみる必要がありそうである。
by saichan_neko
| 2004-11-09 22:24
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