by saichan_neko
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多忙と不調のため、すっかり更新が遅れてすみません。体調も不調だったのですが、実はPCも不調で…。どうにかこうにか、予備の古いデスクトップパソコンをDSL環境で使えるようにしたので、なんとかネット落ちはせずにすみそうです。
さて、予告していたようにこの間、カンタベリー大主教の言葉の原文に取り組んでいたら、なんと全文を日本語に訳してネット上に公開している方がいることを知った。このサイトである。対訳ページに原文との比較も掲載されているので、是非のぞいてみてほしい。 私自身は、得意とはいえない英語で原文を読み、上のサイトの日本語訳とドイツ語訳とを全部つき合わせてこの文章と取り組んた。結局わかったことは、この文章が日本での報道や記事に取り上げられた以上に、ずっと深い内容を含んでいるということである。 そして、その「深さ」に触れたときに、私はこの大主教の言葉に何の反論も、付け加えもする必要を感じなくなり、自分の体験からも「全くその通りです」と言うしかなくなった。 そんなわけで今回と次回は、この大主教の「重い言葉」を読んで、私が個人的に感じたことを書いてみたいと思う。(相変わらずの教会用語からの脱線、すみません…) "Every single random, accidental death is something that should upset a faith bound up with comfort and ready answers. " 「ランダムに突然もたらされる個々の死は、耳ざわりの良い、用意された答えとつな がっている信仰をひっくり返します。」 昨年の夏、突然ノルウェーより1通のメールを受け取った。オスロ在住のある日本人クリスチャンが自転車の転倒事故で、意識不明の重態になったのでお祈りくださいという祈りの要請メールだった。オスロで中心となって日本語の聖書集会を行なっていた方である。ニュースはヨーロッパ中の日本語教会・集会を駆け巡り、祈祷会などを特別に行なった教会もあったと聞く。だが、皆の必死の祈りにも関わらず、10日後にこの方は集中治療室で息を引き取った。 事故の5日前までヨーロッパ日本語キリスト者の集いが開催されており、そこで元気な姿を見て言葉を交わしていただけに、衝撃は大きかった。元気の塊のようなパワフルな女性で、ノルウェー人のご主人と3人の(まだ成人していない)お子さんと、素敵なクリスチャンファミリーを築いていた。オスロ在住の日本人は、何か困ったことがあったときにずいぶん彼女のお世話になっていたと聞く。誰も彼女の早すぎる死を予期してなどいなかった。 今まで目の前にあったものが突然消えてしまったような空白感と共に、「なぜ、よりによって彼女が、こんなに突然に死ななくてはならなかったのか?」という、割り切れない思いが私の心の中に残った。どんな説明をしてみても、誰よりも信仰を輝かせていた彼女が、ご主人とまだ成人していないお子さんを残して死ななければならなかった理由として、納得のいくものには一切ならないのである。 "Faced with the paralysing magnitude of a disaster like this, we naturally feel more deeply outraged - and also more deeply helpless. " 「今回のように人を震撼させるような災害に出会うと、私達は当然のことながら より深い憤りを感じます…そして、より深い無力感も。」 (※"paralysing magnitude"の訳、「人を震撼させる」は意訳と思われます が、他にもっといい日本語訳が思いつかないのでそのままにしておきます。) 年末にスマトラ島沖地震のニュースを聞き、津波の映像を見たとき、夏に感じた空白感と割り切れない思いがまざまざと蘇ってきた。私の知っている人が、この災害に巻き込まれたわけではない。しかし、被災者の方々やそのご家族、そしてその周りの人たちのことを思ったとき、この感覚がフラッシュバックのような形で再体験されたのだ。 "We can't see how this is going to be dealt with, we can't see how to make it better. " 「私達には、これをどう扱ったらいいのか、どうしたらよりよくすることが出来るのか わかりません。」 なぜ地震がスマトラ島沖で起こり、あれほど大勢の人が津波の犠牲にならなくてはならなかったのか。どんな説明をしてみても、その理由として納得のいくものには一切ならない。どうしたら犠牲を減らすことが出来たのかもわからない。亡くなった私の知人が、どうしたら事故に遭わずにすんだのか、誰にもわからないのと同じである。 "We know, with a rather sick feeling, that we shall have to go on facing it and we can't make it go away or make ourselves feel good." 「私達は正面からこのことに向き合わなくてはならず、遠ざけることも気を紛らわ せることもできないのだと、とても辛い感情を抱きながら知っています。」 (注:"sick"を「辛い」としたのは意訳。) 私達にはわからない、ということを認めるのは難しいことだと思う。説明できないものが存在すること自体が不安なことだからだ。更に、それがいつ自分に降りかかってくるかわからないとなれば、不安を通り越して怖い。だからこそ信仰を持っている人は、つい何でもその範疇でつじつまが合うように説明してしまいがちなのだ。キリスト教で言うなら「神の計画」や「神の裁き」であるとか、仏教であるなら「前世の報い」であるとかいうようにである。 でも、本当のところは私達にはわからず、説明も出来ないのだということに、正面から向き合わなければ何も始まらないのだと思う。それがどんなに辛く、不安なことであろうとも。 (次回に続く) #
by saichan_neko
| 2005-03-05 23:49
1週間と1日遅れの更新すみません。いろいろと考えがまとまらないまま日々を過ごしていますが、今日は1月23日付の拙ブログの記事「神はどこに…」に関連する記事を書きたいと思います。(相変わらず脱線中ですが…)
まずは、しばらく前のネットサーフィン中に目に留まった記事の紹介から。複数のメディアの記事がありますがこちらから引用することにする。 『未曾有の大惨事となったインドネシア・スマトラ島沖地震による 津波災害を受け、「私は神の存在を疑う。全てのキリスト者は神の 存在を問うべきだ」と英国国教会(聖公会)の霊的最高指導者 ローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教は1月2日付の英日曜 紙『サンデー・テレグラフ』に異例の手記を寄せた。 個人的で率直な内容で、大司教は既に15万人以上の命を奪った 大惨事によって信仰がくつがえらないと言うなら「それは間違って いるだろう」と述べている。祈りが「魔法のような解決」を提供しない と認め、そして、人間の苦悩に対するキリスト者の回答の大部分は 「目前の堪え難い悲しみと荒廃」には役立たない、と言う。 大主教はそのうえで、「信者たちは生き残った人々と情熱を持って かかわらないといけない」と訴えた。』 「私にはわかりません」というドイツ人牧師の言葉を聞いた時にも率直だと思ったものだが、カンタベリー大主教の文章はこの問題にもう一歩深く踏み込んでいるように思えた。 本当は「神の存在を問う」というタイトルで、この文章から考えたことをいろいろ書こうと思ったのだが、英語での原文のニュアンスがこのまとめと少し違っているという指摘があったので、原文を読んでからにしたいと思う。今日は『祈りが「魔法のような解決」を提供しない』という部分について書いてみたい。 「祈りましょう。」という言葉は、教会では無論よく聞かれる言葉だ。教会が正しく歩みを進めることが出来るように祈る。問題の解決のために祈る。問題に直面している人たちや、自分たちのために祈る。これは、教会で普通に行なわれていることで、その祈りが聞かれることも多々あるだろうと思う。 しかし、もしこれを逆方向に考えて、「教会に問題が絶えないのは、祈りが足りないせいだ」とか、「祈っているかどうかが信仰を表す」などと考えるようになったら、それは全く本末転倒になり、律法主義的になってしまうのではないだろうか。そのうち、「一日○回◎時間祈るのが信仰深い信者の条件で、祈ってさえいれば問題のない人生を送れる」などという、どこぞの怪しい宗教にありそうな路線に走りかねない。 もし祈りが足りないせいで問題が起こっているのであれば、私たちが必死で祈ればスマトラ島沖地震による津波災害の被災者もあっという間に救われて普段の生活に戻れるであろうが、カンタベリー大主教の言葉の通り、「魔法のような解決」は祈りによってはもたらされない。被災地で、今こうして記事を書いている間も水・食料・衣類などを提供したり、孤児となった子どもたちのお世話をしたり、その他様々な活動をしている人たちがいる。こういう人たちの地道な働きによって復興作業が行なわれるのであって、神は人の手で出来ることを代わってやってはくれない。だからこそ今、私たちが被災地の人々と「どう関わるか」が問われているのだ。 同じことが、教会や日常生活にも言えるだろうと私は思う。問題が起こったとき、それを解決していくのはあくまでも本人たちであって、神に全面的にやらせるわけにはいかない。だから、祈るとしたら有名な「ニーバーの祈り」が一番よいのではないかと思う。 『主よ、 変えられないものを受け入れる心の静けさと 変えられるものを変える勇気と その両者を見分ける知恵を私に与えてください。』 祈るだけではなく、変えられるものを変えるために行動することは重要だ。「信者たちは生き残った人々と情熱を持ってかかわらないといけない」というカンタベリー大主教の言葉は、そういう意味でも非常に深い言葉である。そして、「情熱」は英語で"passion"というのだということも、忘れてはならないと思う。 #
by saichan_neko
| 2005-02-10 07:54
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